心の中に、自分だけの神様を持つ大切さ
最近、すごく自分の中でのテーマとして「宗教心とか信仰心」というものについて考えることが多いのです。
もちろんですね、この両テーマはセンシティブなものであることは重々承知しております。
「何かを信じれば救われる」みたいな姿勢は、思わぬ落とし穴にハマることもあったりするし、「宗教心」とか「信仰心」が色々な悲劇や苦難を巻き起こしてきていることも多くあったりするわけだから。
でも、ちょっと聞いて欲しい話があるのです。
もう、何年前になったか忘れてしまったのですけど、ものすごく仕事ができて、ある会社の営業成績で全国トップになったような人と仲良くなったことがあったのです。その人と確か京都で飲んで色々と話して、「じゃあ、今日は帰りましょうか」となった時に、「あ、ちょっと待ってくださいね」と言いながら目の前のお地蔵さんに向かって手を合わせて祈り出したんです。
何か、その姿がすごく印象深く残ったのです。
人が何かに向かって真摯に祈る姿は、それだけでもう言葉では説明できない神聖さがあったりしますし、しかも、少し前までの時間、その人は酔っぱらって、くだらないことなんかもわめいたりしていたわけだから。
一方で、その人が祈っている後ろ姿を見て、少しだけ困惑してしまったことも事実なのです。
というのは、その人は仕事をバリバリこなす人で、「どうやったら売り上げを上げられるか」とか、そういうことを徹底的にロジックなり、シミュレーションなり、顧客目線で考えるような人であるのです。
そんな人が「祈る」みたいなことをやっているのを目の当たりにした時に、そこにひとりの人間の完全な「矛盾しているが、同一である」みたいなことを感じました。
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