自分がやりたいことは、すぐに他人に発表しない方が良いんじゃないか

北野武さんの幼少期の頃を描いた『たけしくん、ハイ!』という作品があるんですけど、僕が子どもの頃に大人気で、本とテレビ版が作成されたんです。すごい好きで、よく見ていました。

その『たけしくん、ハイ!』の中で、たけしさんのお母様がすごい教育熱心な方で、たけしさん兄弟にものすごい教育を施すんですね。でも、幼少期のたけしさんはめちゃくちゃ野球が好きで、野球をしに勉強をサボって出掛けちゃうんです。手元に本が残っていないから、思い出しながら書いているので間違っていたらすみません。勉強をサボッて野球に行ったたけし君はお母さんが烈火のごとく怒っているのはわかっているんです。それで、家に帰ってきてやっぱりものすごく怒られる。この、お母さんのサキさんがたけし君に対して怒るのは、本でもテレビ版でも、苛烈なんです。めちゃくちゃに怒る。でも、遊びに行くと決めた時点で、たけし君は「好きなことをしに出掛けていったわけだから、もう怒られるのは覚悟の上。好きな野球ができて後悔はない」みたいな、静かな覚悟とか佇まいみたいなものがあったのです。それが何か、子どもの頃に本で読んだり、テレビで観た『たけしくん、ハイ!』の中で一番印象的なシーンでした。

「あとでめちゃくちゃに怒られたとしても、絶対に野球がしたい」

って、何かもう、純粋な火の玉のような欲望の美しさみたいなものがありませんか?逆にほら、「曇ってしまっている欲望」とか「端っこの方がくすんでしまっている欲望」もあったりするでしょう?ある人が何かの人助けみたいなものを提唱してても、「なんかな、素直に乗れないんだよな」と感じてしまった時、その人から伝わってくる「欲望」に対して純粋な火の玉を感じられていなかったりしているのかも知れません。

なんでこんなことを書いたのかというと、最近の自分の身近である出来事が起きて、その際に「やっぱり自分のやりたいことは、すぐには他人や周りには言わない方が良い」と思ってしまったことがあったのです。

今回のコラムはちょっとダラダラ書かせて頂きたいんですけど、本当に子ども頃から疑問だったことがあったんです。ほら、若い頃って特に友達同士で集まったりすると「私、○○をしようと思っているんだ」とか「実は今、△△をやっている」みたいな、そういう打ち明け話が出ることが多いじゃないですか。でも、それから数カ月ぐらい経った時に、見事に「取り組んでいた○○」が無かったことになってしまっている。

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