自分が「公的なもの」になりつつある恐怖

今回の相談者の方はなんと年明けに小説家デビューをするそうです。おめでとうございます。パチパチパチ。今、書籍化の作業も大詰めになっていて、いよいよデビューするのか~という気持ちがあるそうです。なんだか、読んでて勝手に嬉しさと緊張感に包まれています。「デビューする」瞬間というのは、やはりすごい色々なパワーが詰まっていますよね。

それで、この方のお手紙で面白かったのが、「嬉しい一方で、自分のいる世界が変わっていってしまうような、そういう恐怖心があります」と言っていたことなのです。

ここは何か「さすが小説を書いている人だ」と思ってしまうぐらいに、今の自分の状況、(デビューに対して)「ワーワーしている周囲のみんな」とか、そのような「世界の変化」を、このお手紙の中で描いてくれておりました。皆に見せたいくらい、その「自分」と「周り」の変化の描写が面白かった。そして、そういう「世界の変化」を虚しく感じられてしまうときがあるそう。この後も色々と面白いことを書いて下さったのですが、相談者自身がどこか「公的なもの」になりつつあって、そこに寂しさに近いものを覚えたりもしますというお手紙でした。

今回のお手紙から取り上げたいのが「自分が『公的なもの』になりつつある恐怖」の話なのです。

この話は個人的にすごく興味深い話で、おそらく一般的に「一線を越える感覚」に近いものだと思うのです。何かほら、この話で僕が一番に思い出してしまったのが、毎年ニュースで「宝塚音楽学校に合格した学生たち」をやったりするじゃないですか。あの子たちの顔つきはまさに「これから覚悟と試練の場所に入るぞ」みたいな、そういう心持ちがあって、もうなんかすでに、「素人の方の顔じゃない」みたいな感じになっている。

そのような「ピンと張り詰めた空気」というのは、ちょっと言葉で説明できないですよね。いわゆる、「そのゲートの中に覚悟を持って入っていく人」の顔つきとか雰囲気というのは、必然的に変わってくる。それを「見守る人」とか「外で“おめでとう”と言ってくれる人」との間においてもう、顔つきと雰囲気には差がでてきたりする。

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