孤独はどこまで必要なのか
最近テレビでマツコ・デラックスさんと星野源さんが孤独について話し合っていて、すごく興味深かったのです。
たとえば、星野源さんがライブを終えて、それこそ何万人もの人々の歓声を浴びた後に家に帰ってひとりで洗濯機を回して、その回っている洗濯機を見ているとすごい孤独を感じる。そういう時に電話でもできる友達がいればまた違うんですかね、みたいなことをマツコさんに投げかけていて、それに対して「星野さんはそういう時に電話をするタイプじゃないと思う。ひとりで徹底的に追い込むんじゃないか」、「そういう孤独に耐えられる人だからこそ、(大意として)今のアーティストのような仕事ができている」みたいなことを答えていたのです。普通の人だったら孤独に耐えられず、途中でドロップアウトしていると。
それを見て「あー」と思わずテレビの前でつぶやいてしまって。いや、こういうのを見た後に、「いや、実は私もさ」なんて言うのはカッコ悪いんですよ。でも、このテーマについてはずっと考えていることがあって。
これは僕の持論なのですが、モノ作りって、「誰かと別れて、駅から家までのひとりの帰り道の中で行われる」と思っているのです。それこそ、僕は洗濯機を見る趣味はないんだけど、「何かを見ているわけでもなく、でも、何もしていないわけでもなく。虚空を見ている時間」というのは、それこそ自己表現をする人や、モノ作りをする人には必要な時間なんじゃないか。
昼間あった出来事。友達に言われたキツい一言。ライバルが言った「こいつ、すごいこと言うな」と思わず負けを認めちゃうような他人のセンス。そして、その日にあって、ずっと忘れられないであろう、閃光のような光景。
それらの時間って、処理をする時間が必要だと思うのです。
その「自分にあった時間の処理の時間」が長ければ長いほど、実は詩人に向くんじゃないかと僕は勝手に思っているのです。ここで「詩人」という言葉を使ったのは、詩人というのは、外にあった物事、そして、世界に起きた出来事、自分の中に湧いた感情を、自分の言葉や感覚にするまで醸成させ、それを自己表現に使う人のことを言っています。写真の投稿をSNSですれば、一応、「その日にあった出来事」の報告は終わる。でも、それ以外の「なんでこんなことをしたんだろう」という感覚は、良いことも悪いことも、まだその時点で全部は消化をできないわけだから。
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