長年の自分のキャラを脱したい
今回のお手紙は、「私はとにかく口が悪くて、しかもそれがどうやらとても鮮やかで説得力や迫力があるので、長らく『悪口の名人』として周りのみんなを楽しませてきました」の一文から相談が始まっていました。すごいですね。
でも、こういうすごい方って、いらっしゃいますよね。「気の利いた悪口」とか「センスのある悪口」とか、「その角度から切り込んで、そこまでえぐるのか!」みたいな悪口って、もちろん、仲間内だけだけど、「なんらかの悪に切り込む爽快感」みたいなものがあるし、「悪口」だからこそ「どこまで踏み込んで、どこをいじってはいけないか」みたいなセンスもすごく要求されますもんね。
それで、この相談者の方は「悪口の名人」を卒業したくなってきたそうなのです。ふむふむ。
というのは、よくよく「悪口」について考えてみたら、自嘲をしてみたり、他の何かを面白いおかしくけなしてみたりする行為は、自分が「思慮深く知的な人間である」ということの、単なる(手軽で姑息な)アピールの手段でしかなかった!と気づいからだそうです。
この一文を見ても、「この人は何者なのだろう?」と思ってしまいました。
だって、そんな「自分が普段やっていることの客観的で冷静な分析」をして、それを言語化できる人なんて、そこまで多くいないはずだから。見事です。
「人ともっと純粋に『よきこと』で深く豊かに繋がりたいです。私に、「悪口の名人」を卒業するためのヒントをいただけないでしょうか。長年身に染み付いたくせをやめるのは考えただけで難しくて、足がすくみます。応援してもらいたいです!」と、お手紙は締めくくられていました。
それでは、今回のお手紙から取り上げたいのが「長年の自分のキャラを脱したい」の話なのです。
最近ですね、お世話になっている媒体からの取材があったのです。けっこうもう、長い付き合いになっている編集さんやライターの方と、仕事の合間にお茶を飲みながら雑談をしていたんですよ。
そしたら、ライターさんがある会話の中で、「人って、誰と一緒にいるかによって、それで色々と性格が変わっていきますしね」と発言したのです。
雑談の流れの中で「ただ普通に発した言葉」だったのですが、僕は電流を打たれたかのように、その言葉が響きました。
「いや、そうだよな。人の性格とか性質って、ひとりで練り上げて作っていくものでもあるけど、近くに誰かがいて、その人(たち)の影響を受けていくことが多いよな」
と改めて考え、うなってしまいました。
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