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未来の土日を想像する大切さ

これはすごく個人的な意見になってしまうのですが、僕は「頑張る」という言葉はすごく厄介だなといつも思ってしまいます。

「頑張る」って、たとえばもうすでにエンジンがかかっている状態の時に自らに言ったり、また、他の人の言われることがあると有効になるシーンが多い。

「よーし、ここまでやったらあと少し。頑張るぞ!」とか、「あなたのそのやり方で問題ないと思う。ただ、期限までもうちょっとだから頑張りなさいね」とかです。

ただ、注意しなければいけないのが「頑張らなきゃ」という台詞と、あと、やっぱり自分がどこの方向性に対しても自主的に出発していない状態で言われる誰かからの「頑張れ」は厄介で、たとえば「あなたも何か趣味を見つけるために頑張れ」とか言われたら嫌じゃないですか。

なんでこんなことを書いたかというと、多分、日本文化って「頑張れ」「頑張る」という感覚が好きなんじゃないかと思ったのです。「頑張る」=「努力」がすごく上位の価値に行く傾向がある。

でも、ここもすごく大胆なことを言うと、僕なんかは学生時代に「頑張れ推奨文化」の中で育ってきたけど、大人になって仕事が出来る人とか、何か自分の頑張る方向で価値を創り出しているような人って、どこかアホなんです。笑 なんか、「あの人立派な人なのに軽いなぁ」という印象を受ける。努力一辺倒とか「答えを見つけ出すために頑張る」というものじゃなくて、道ばたにあるラッキーを拾っちゃうところもある。Luckyを拾うためには、自分の中に「軽さ」を持っておく必要がある。

もうちょっと「頑張る=万能ではないかも説」の話を続けさせて下さい。

何かを成し遂げるために「頑張る」のはとても大事なものだけど、それよりも、その人のなりの「感性」とか「センス」の方が大事なんじゃないのか。そして、この「感性」とか「センス」を磨くのは、ただひたすら頑張るやり方じゃなくて、もう少し、「その人のなりの遊び」みたいな感覚も含まれている。

世の中には楽しそうに英語を話せる人がいる。その一方で、英語をひたすら単語から覚えて話せるようになれる人もいる。

前者のやり方に関しては「英語を話してhappy」というニュアンスがあるし、後者の場合は「英語を話せるように努力をして、そして、幸せになる」みたいな、happyと幸せの着地点の違いみたいなものが出てくる感じがあるのです。

「幸せになる」という言葉の多少の重みと「happyでいる」の軽さ。

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